Colonia de estados unidos

今から40年前の1978年。20歳だった私は、ペルー・アンデスに登山遠征に行き、そのまま、バックパッカーで南米の国々をまわった。

その時見た日本の形は、今とかなり違うものだったので、忘備録として書いてみたいと思う。


1978年、日本では「ザ・ベストテン」が始まり、キャンディーズが解散、サザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」でデビューし、植村直己が日本人初の北極点到達。成田空港が開港した。

羽田空港から旅立ち、帰りに到着したのは成田空港。新品の巨大な空港で、日本に帰ったような気がしなかったことを覚えている。


出発のときは1ドル=120円以上していたのに、いつの間にか180円代に高騰。旅の途中で送金を受け取ったときは、ものすごく得した気分になった。

しかし、田舎の町へ行くと「Japón(日本)」とう国はほとんど認識されておらず、いつも「Chino(中国人)」と呼ばれ、最初のうちは必死に説明して訂正していたが、面倒くさくなって呼ばれるに任せるようになった。

バイクはほとんどが「ホンダ」で、「これは俺の国、日本のバイクだ」と言うと「Chinoにこんなバイクが作れるわけ無いだろ」と嘘つき呼ばわりされた。

チリで女子大生と話したとき「日本から来た」と言ったら「知ってるわ。Colonia de estados unidos(アメリカの植民地)でしょ」と言われすごく驚いた。


若気の至りで職業は、都合のいいように詐称していた。最初は「医者」と言っていたが、アマゾンの村で、ホテルの部屋に、牛の角に首をざっくり切られて血だらけになった男が運び込まれ「村には医者がいないので診てくれ」と言われた。

幸い、登山遠征で使った薬の残りをいろいろ持っていたので、消毒して抗生物質を与えたら、良くなった。でも「もし死んでいたら」と怖くなり、それからは「歌手」と名乗ることにした。

歌うのは「上を向いて歩こう」。南米でもよく知られた大ヒットソングで、酒場で歌うと皆が奢ってくれて、ただ酒を飲むことが出来た。

クリスマスイブの夜、南米では皆、家に帰り、それぞれの家庭でホーム-ティーを開く。そこに招待されて歌ったところ、ものすごい大受けで、次から次へと朝まで引っ張り回され、喉から血が出たので、歌手は廃業して、次は「空手の先生」になった。

その頃、南米ではブルース・リーの「燃えよドラゴン」が大ヒットしていたので、どこに行っても人気者になることが出来た。

ところが、パタゴニアでチリからアルゼンチにバスで入るとき、イミグレで引っかかってしまった。すべての手続が終わって、バスが出発する寸前、アルゼンチンの国境警備隊が来て、詰め所に連れて行かれ、大勢の男達に取り囲まれた。何が起こったか分からず、足がすくむ思いだった。

すると、「この隊員たちに、空手を教えて欲しい」と言われた。私の前に並んでいるのは、グリーンベレーのような戦闘服を身に着けた、筋肉隆々の男たち。

空手など全く知らないが、古武道を少し習ったことがあったので、もったいぶりながら、突きや蹴りを教え、型を披露して無事に役目を終えた。


暇なときは、映画をよく観た。特に「エマニュエル夫人」。日常会話程度のスペイン語は不自由しなかったが、テレビや映画のセリフにはとてもついていけず、英語はさらに分からない。その点、こうした映画なら、セリフも字幕もなくても大丈夫。それに、今もそうだが、当時の日本ではそのようなものを観られることは絶対になく、若い男子としては興味津々だったこともある。

とても興味深かったのは、カットされている場所がそれぞれに違うこと。

ノーカットで上映している国や性的シーンをすべてカットしている国。セックスはOKなのにマスターベーションはカット、女性同士の行為がカットされている国もあった。

今はどうなっているのか?観に行ってみたいと思う。


何を書いているのかよく分からなくなってしまったが、当時は、まだ「日本」という国はよく認識されておらず、名前を聞いたことがある人にとっても、神秘的な未知の国だったのではないかと思う。

外国の思い出、また書きたいと思います。

これでいいのかな?

テレビ業界で働くフリーのディレクターです。だから何?ときかれても困りますが、気の向いたときに、世迷い言を書いています。

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