罪と罰
最近、省庁や官僚への信頼が揺らいでいる。
先日、加計学園問題で、元首相秘書官の柳瀬唯夫氏が、国会で答弁を行ったが、新たな嘘を積み重ねただけで、虚しく終わった。
森友学園問題では、前財務省理財局長の佐川宣寿氏が、「記憶にない」を連発して顰蹙をかった。
他にも、厚生労働省は裁量労働制のデータを捏造し、防衛省は南スーダンの活動日報を隠匿していた。山口敬之による詩織さんレイプ事件をめぐる警察庁の疑惑も未だ晴れていない。
元文部科学省事務次官の前川喜平氏が内部告発をして、多くの官僚がそれに続くかと期待したが、その気配は一向になさそうだ。
こうした事態を見て、私はドストエフスキーの「罪と罰」を思い出した。
頭脳明晰な元大学生が、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論をもとに、金貸しの強欲狡猾な老婆を殺害して金を奪う。
つまり、選ばれた人間が正しい目的を遂行するには、すべての手段が正当化されるという考え方だ。
これは、まさに今の安倍政権の思想であり、もっと言えば阿部教の根本である。
今の官僚たちは、この教義に洗脳されているのではないだろうか。
確かに、厳しい試験をくぐり抜けてきた官僚たちは、ある意味、選民ではある。しかし、それは学力のことであって、決してそれ以上のものではない。
勉強ばかりしてきて、しっかりとした自己も出来ていない未熟な人間が、洗脳され、与えられた目的を正しいと信じて行動するほど恐ろしいことはない。
「罪と罰」では、最終的に主人公は罪の意識に目覚め、自首するのだが・・・
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