糞みたいな仕事
今日、ネットで東洋経済の記事を読んで、考えさせられることがあった。
イギリスの人類学者、デヴィッド・グレーバーが書いた「Bullshit Jobs:A Theory」についての記事だ。
有名な経済学者、ケインズは、テクノロジーの進化で20世紀末までに先進国では、週15時間の労働が実現するだろうと予言した。
確かにテクノロジーは進化した。私の仕事で言えば、FAXやメールができて手書きの原稿を電車にのって届けなくても良くなったし、ネットができ、リサーチも大宅文庫や図書館をはしごして記事を読み漁ることもなくなった。パソコンのおかげで、映像の編集時間はものすごく短縮された。
なのに、仕事は楽になるどころか、忙しさを増すばかり。
その理由をグレーバーは、テクノロジーが無意味な仕事を生み出す方向に使われたからだと説いている。それを読んで、私は、若い頃の自分の仕事を思い出した。
私は、大学を出るとアサヒビールに入社し、営業に配属された。担当地域を決められ、酒販店や問屋を回って、自社製品を売り込むことが仕事。決められる予算は、全員「本当かよ」と思うような前年比プラス。達成できる見込みなどまったくなかった。
そして、月末には上司から「積め」という号令がかかり、酒販店や問屋の倉庫の空きスペースに頭を下げて「売れなかったら私がなんとかしますから」と言って、押し込んでいた。
その頃のアサヒビールは「鮮度が命」なんてCMでは言っていたが、無理に積んだ商品など、売れるはずもなく、倉庫に放置され「私がなんとかします」と言った手前、無視するわけにもいかず、結局、自分で引き取って社宅で売りさばくことになり、皆そうだったから、いつも古いビールを、中には3年もたって濁りが出たものも飲んでいた。
その時つくづく思った。「俺のしていることは、社会の役にたっているのだろうか?」と。
その疑問を上司にぶつけてみたことがある。すると「セールスで世の中の隠れた需要を引き出すことで、経済は発展し、日本は豊かになる」みたいなことを言われた。彼も、そう信じなければ、自分の存在価値を認めることができなかったのかもしれない。
私は最近NHKの番組を作ることが多いが、ものによってはすごい中継ぎが入る。
NHK⇒NHKの関連会社⇒民間のプロダクション⇒私、となる。
構成を決め、編集をして、ナレーションを書くのはディレクターの私。それを民間プロダクションのプロデューサーが試写して直しの注文をつける。それをNHK関連会社のプロデューサーが試写して直しの注文をつける。その度に私は直さなければならない。最後にNHKのプロデューサーが観て、最初に戻る。なんてことが日常茶飯に繰り返されている。中間の人たちは、誰も意義をとなえないので、すべてディレクターの責任で終わる。
毎度のことなので腹はたたないが、不思議なのは、中間のプロデューサーたち。なんの役も立たないことをして、無力感はないのだろうか?
グレーバーは言っている。
看護師や介護士や、トラック運転手や工場労働者や農業従事者や・・・
今の社会は、なくてはならない人の賃金が低くて、やらなくてもよいような仕事をしている人間ほど豊かになっている。
この現実を見つめない限り、日本は生きていくことができなのではなだろうか?
0コメント